立冬の空と森
暦の上では明日は立冬。
シトシトと時雨(しぐれ)が降る晩秋に、昨日は、嵐のような激しい暴風雨が窓を叩きつけていた。
11月に入っても、なかなか脱ぎ捨てられなかった熱を、あの嵐が吸い取って持ち去ってくれたかのように、今日は涼しい。やはり立冬だからだろうか。
昨日の夕方、嵐が過ぎ去って穏やかになった空を見上げた。
様々な灰色が重なっていた。
灰色(グレー)は、あまりいいイメージで使われることがない色味だけど、私は大好きな色。
光の濃淡だけで表す彩りのない色のことを、無彩色という。
無彩色とは、光だけの白と、全く光がない黒と、その間の光の濃淡だけで表す様々なグレーがある。私は、この光だけで表す無彩色になぜかとても惹かれる。光と陰を感じられるからなのかもしれない。
芦屋に在住した谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』がある。
昔、読んだ本だが、とても共感したことを覚えている。
まだ電灯がなかった時代、灯りによって家中の陰をなくそうと努力していた西洋とは逆に、日本では陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げ、それこそが日本古来の美意識の特徴だと、この本には書いてある。
和歌山にある海南リトリートは、伝統的な日本家屋で、その陰影の美しさがあちこちに散りばめてある。
例えば、この玄関。
細い格子を、等間隔でこれだけの本数つけていくことは、どれだけ大変な作業なのだろう。まさに匠の技。
そのおかげで、外の光が穏やかに室内に入ってきて、室内に美しい影が生まれる。
玄関前に植えられた皐月(さつき)の花が満開になる初夏、暗い玄関の内側からぼんやりと赤い色彩だけが映る。この間接的なものに美を感じ取れるのは日本人だからなのかもしれない。
陰影といえば、太陽が地平線に隠れて、薄暗くなりかけた森。
空にはまだ微かに光が残っているが、森には光が届かなくなってきた頃、影絵のように樹形だけが空に浮かび上がる。
この時間は、なぜか、地球上のあらゆるものに、この上ない親しみと感謝が湧いてくる。
この週末、福岡の実家の近くにあるキャンプ場で、カッコよくいえばソロキャンプをしてきた。
今でこそ、ソロキャンは大ブームとなっているが、私は子供の頃から、海岸や河原で石を積んで枯れ木を集めて、マッチで火を起こして、飯盒炊飯をしたり、持ってきた網を載せて、スーパーで買ってきたり家から持ってきた食材を焼いたりして楽しんでいた。
お洒落な道具など皆無だった(笑)炭も使わなかった。それでも火をちゃんと起こせた。
今は、キャンプ場の決まりで、直火ができないので、簡単な焚き火台と、防火シートと炭とトングを買ってきた。折り畳みの椅子とヤカンなども家から持って行った。
森を見渡し、針葉樹を探して、その木の下に落ちている枯れ葉や枯れ枝を拾ってきた。
針葉樹の薪や枯れ葉は火がつきやすいが、燃え尽きるのも早いので、点火材として私は利用する。
まずは、山と森と大地とそこ住むものたちと火の精霊に挨拶の祈りをする。それから火を起こし始める。不思議なことに、祈りを忘れると火はなかなか点かないのだ。
人混みから外れた森の入り口で、日がとっぷりと暮れるまで、ただひたすらに火を見つめて過ごした。
背後の森と、森が抱えるあらゆる命を感じながら、私もその命のひとつとして森に包み込まれ守られているような穏やかさを感じた。
土の匂い、草木の匂い、燃える木や炭の匂いを嗅ぎながら、パチパチという焚き火の音と、森から聞こえる鹿の声に耳を傾けた。
キャンプ場にいる子供たちの楽しげな声。
遠くの街から聞こえる飛行機や車や電車の音。
普段は静かな森に、押し寄せてくる人間たちを、動物や精霊たちはどう思っているのだろう。
『私たちは元々、森や山と暮らし、火に守られて生きてきた。だから、現在の人間も、時々森に行って火のエネルギーをもらいたくなるんだよ。今日は仲間に入れてね。』
最後の残火となった頃の炭はとても美しい赤色を発する。
暗闇の中にいても、全く怖くないのは火のおかげ。
私たち先祖は、火に感謝して火を守って生きてきたのだろう。
暗くなった森の中で圧倒的な虫の音色に包まれ始める。
ああ、この可愛らしく美しい虫の音色を音楽として捉えることができるのが日本人とポリネシア人だけなんて!
日本人でよかったと思える瞬間がここにもあった。
影を愛し、虫の音色を聞き分け、自然に感謝と親しみを抱く日本人。
色と音への感性に優れて、全てのものに神を感じて感謝して生きてきた日本人。
日本に生まれてきたことに誇りと感謝を感じながら、その感受性と精神を忘れずに次の世代に引き継いでいきたいと思った数日でした。