2023年を振り返って
(この一年、なぜか偶然にも3度も行くことになった長崎。これは、長崎市東出津町の遠藤周作記念館の敷地から西に広がる東シナ海を撮影。この記事とは全く関係ないけど(笑)、長崎で撮った写真を3枚掲載します)
歳とともに、時間が過ぎゆくスピードが早まるという話を聞いたことがある。
確かに、あっという間にもう12月!?みたいな話は、年齢を重ねるごと周りからよくきくようになった気がする。
でも、私は一年一年、どの年も同じように密度の濃い時間を過ごしているような気がする。
きっと、あまりのんびりと暮らしていないせいかもしれない。
私の来年の目標は、'ゆとり'だ。
ゆとりとは、隙間のことだと思っている。
だから、もっと隙間のある、つまり余裕のある暮らし方をしたいと願っている。
そのためには、色々と無駄なものを削ぎ落としていく必要をひしひしと感じている。
持ち物や暮らし方だけではなく、思考の整理も含めて。
無駄なものがなくなれば、もっと隙間が出てくる。
現在の社会は、私たちにこの隙間(つまり余裕)を与えないように、色々なものを(そして、それはとても興味を引かれるもの)を提供してくれている。
携帯電話も、パソコンも、ゲームも、サブスクでみれる動画も、SNSもなかった学生時代。
一体、どうやって友人と連絡をとったり、情報を得たりしていたの?と、息子に聞かれたことがある。夜、自分の部屋で何をして過ごしていたの?休日は何をして暇を潰していたの?と(笑)
私は、確か、友人とは学校であったときに会話するだけだし、たまに一緒に休日に出かけることはあるけど、そんなに頻繁ではなかったし、部屋では本を読んだり、勉強をしたり、絵を書いたりしていたかなと返事したと思う。
そういう時間を学生時代に過ごせたなんて、羨ましいと息子が言った。今の世界は便利すぎて、何か大切なものを失ってしまっていく気がすると。
今は、本当に便利な世の中だと思う。こうして、私も自分のパソコンでソファに座って、ブログを書いたりしている一方で、ネットで調べたレシピに従って、キッチンで煮込み料理を作っている。便利になったけど、私も、何かに追われるように暮らしている気がする。
結局、どれだけ便利になろうと、心と生活は、隙間がたっぷりの余裕を空けておきたい。
私の2024年の目標はこれに尽きると思っている。
持ち物を減らして、生活を簡単にして、毎日空を眺め、星を見上げ、風を感じて、目に見えない存在たちに心を向けて生きて行こう。
皆さんは、2024年、どんな風に過ごして行きたいですか?
その夢が叶うことを願っています。
最後になりましたが、今年一年お世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
2023年12月31日 Serena
ネガティブさは要らない
私の身近には、辛い苦難を乗り越えて、より一層優しくなった人たちが何人かいる。
どんな人も、様々な苦難には直面するものだけど、彼らの苦難は並大抵ではないものだ。それでも、明るく微笑んで佇んでる姿は、そんな過去の苦難を微塵も感じさせないほど穏やかなものなのだ。
この世界は、ある見方をすれば、とんでもなく危険な場所に見える。
陰謀、策略、欺瞞に満ちた世界だ。
テレビをつけると、どこか遠くの、全く知らない人に起きた悲劇や、起こるかどうかわからない危険に注意喚起するニュースばかりやっている。
なぜ、この世界は、こうもネガティブなのだろうかと、私はいつもため息が出る。
そういう私も、かつてこの世界のネガティブさにつかまって、危ないぞ、危ないぞと警鐘を鳴らしたことが何度もある。
でも、、、、。
例えば、母なのだが、
母は、ちょうど今の私と同じ年齢で、交通事故に遭った。
仕事を終えてバスから降りて、ようやく家にたどり着けるとほっとしただろう自宅前の横断歩道で、左折してきたバイクに跳ねられ、頭から地面に叩きつけられてしまった。
救急車で病院に運ばれ、脳の手術を受けた後は、言葉が出てこない後遺症が長く続き、精神的にとても苦しんだ。長いリハビリによって少しずつ言葉が回復して半年ぶりに帰宅した時に言った母の言葉が衝撃的だった。
『(誰でもない)私で本当によかった。神様に感謝している』
バイクを運転していたのは、近くに住む10代の新聞奨学生だった。母子家庭で、弟は障害者。息子の事故の知らせに、うちの玄関で土下座をして謝罪するお母さんの涙に、私たちは胸が苦しくなった。一度、母親に伴われて、事故を起こした少年が、母の見舞いにきてくれたことがあった。
私と父は、もう事故のことは忘れて、自分の未来のために生きるようにと少年に話をした。
これ以上の見舞いも、謝罪も要らないと。
私は、当時大学生だった弟と同じくらいの年齢のその子には、未来に希望だけを抱いて明るい青春を生きて欲しかったし、教師だった父も、きっと同じ思いだっただろう。
以来、その子には会ったことはない。明るい人生を送ってくれていたらと今でも時々考える。
母は、数年間は、自分の悲運を嘆くこともあったが、同時にこの事故にあったのが、家族の誰でもなく自分で良かったと毎日、神棚に手を合わせて感謝するようになった。
私は、思うように言葉が話せなくなる状況が自分の身に起きたらと考えたことがある。
苛立ちと、孤独感に襲われるのではないか、誰かを恨みたくなるのではないか、と。
でも、母は当初こそは苛立ちはしていたが、感謝の気持ちの方が強くなって、次第に笑うことが多くなって行った。
人は考え方次第で、不幸も幸せにもなれるということを教えてもらった気がする。
母が普通に話せるようになるのは難しいだろうと医者に言われていたが、驚異的な回復力を見せて、数年後にはぺらぺらと喋っていた。
母が入院していた頃、その近くの大学に通っていた弟は、毎日、時間を見つけては母の病室に通い、嫌がる母に付き合って根気よく言葉のリハビリをさせていた。手術後すぐに初めて、半年の入院期間中、欠かさずにやっていた。弟にそんな根気があることに、私も家族も驚いた。母の回復は弟のおかげだと家族の誰もが確信している。
その弟が40歳の頃に脳梗塞で倒れた。
実家に戻って今度は、弟が家族の手助けによってリハビリを受けていた。
幸いほとんど麻痺も残らずに回復して東京に戻って行ったが、その10年後に今度は癌になって再び実家に戻ってきた。
80代の母は、弟のために、毎日買い物に行き、体に良いご飯を作り続けた。
実家は階段がない4階にある。物が詰まった買い物カートを4階まで毎日運び上げる作業はどれほど大変だっただろう。
一年後、弟は両親に感謝して、東京に戻って復職をした。
それ以降、彼の癌は完治していないが、5年以上進行もしていないようだ。
弟からも弱音や愚痴を一度も聞いたことがない。常に明るく、そして優しい。
私の周りにはこういう人が多い。
彼らの特徴は、自分に起きたことを誰かのせいにしない。
そして、どんな時も感謝の気持ちを忘れないのだ。
そこに心底、感服する。
何よりも、自分の人生に希望を忘れない。
だから、この世界にも希望を抱いている。
不幸を数えるよりも幸せを数えるし、絶望よりも希望を探す。
些細なことに感謝を探すので、人に優しくなる。
ああ、こういう人たちがこの世界に存在してくれることで、私はこの世界の未来に希望を抱けるのだ。
彼らは、この世界のことを嘆かない。未来を嘆かない。
悪いニュースを聞いても、自分の周りの人たちや暮らしに希望を持っている。
彼らにはネガティブさを感じない。
私は、そういう人たちと同じ世界にいられることに感謝している。
そして、私も、もうネガティブなことに気を取られることなく、明るい未来だけを信じて、生きていこうと思う。今、ここにある身近でささやかな、でも確かな幸せに目を向けて、微笑んで生きていくのだ。
それが、きっと、本当の意味で、明るい社会を作っていくとにつながっていくのだから。
今から少しずつサバイバルに強い人になっておこう
20年ほど前に、飯田市が主宰する「南信州あぐり大学院」に月に一度、1年間通っていたことがある。
現在はもう存在しない学校だが、山で生きて行く術を教えてもらった
(もしかしたら学校の趣旨はそうじゃなかったかも知れないが、私は勝手にそう捉えた)
そこで学んだことは私には大きな経験で、これから何があろうと鉈(なた)一つあれば生きていけるような気持ちになった。
(竹を山から切り出して、それを鉈で切れば、鍋釜や食器や箸やカトラリー も作れる。竹はとても有難い植物!)
山や自然の中で、人が力を合わせれば、どんな世界になってもたくましく生きていけるに違い。そう確信できるようになっだ一年だった。
そういえば、小学校に入学する時、当時大好きだったサンリオキャラクターの筆箱を買ってもらって大喜びしたことを覚えている。しかし、その可愛らしい赤い筆箱の底には、似つかわしくないものが忍び込ませてあった。『肥後守(ひごのかみ)』だ。
肥後守 | 京都長岡京市の壁紙提案と高気密高断熱が得意な工務店より転載
筆箱に小刀を入れたのは、小学校の教師だった父だから、当時はナイフを学校に持って行ってもよかったのだろう。
家に、鉛筆削機がなかったわけではないから、子供の頃から刃物に慣れさせようとしてくれたのだと思う。
肥後守をすっかり気に入った私は、相棒のごとく常に携帯していた。鉛筆以外にも削れるものはなんでも削ったり切ったりした。肥後守はすぐに切れ味が悪くなるから、時々、研ぎ石で研磨して、鋭利さを保っていた。
あれだけ愛していたのに、中学に入る頃には引き出しの奥に仕舞い込み、いつの間にか忘れ去ってしまった。そして消えてしまった(涙)
今でも私は、鉛筆や眉墨はナイフで研ぐことが多い。理由はわからないが、ナイフで削っていると、なぜか心が休まるのだ。包丁などを研ぎ石で一心に研磨している時も同じ気持ちになる。
だから、研ぎにはある程度自信を持っていたのだが、数年前に、ハルさんの商売道具だった魚を捌く包丁を勝手に研いでボロボロにしてしまって以来、ちょっと自信を喪失している。
それでも、私は道具を手に持って何かをするのが好き。
なんだろう、生きているぞ!的な、人間の本能が呼び覚まされるような感覚。
そして、生きていけるぞ!的な安心感に満ちた感覚のせいなのかも知れない。
父が風呂場でも物置でも塀でもなんでも作るのを見て育った私は、それだけで自分でもできるような気になって、本当に何でも作って来たが、一度ちゃんと習ってみようと、数年前にホームセンターが主宰するDIY教室に通ってみた。
そこで、ノコギリと金槌さえあれば、なんでも作れるような(またも思い上がった)気持ちが(すっかり)出来上がってしまった。
実際は、丸のこや電動ドリルやドライバーなどの電気に頼る道具を主に使ってDIYしているけれど、それでもある程度の必要なものを自分の手で作り出せることは嬉しいものだ。
なんで道具の話をしているかというと。。。
私は、20年くらい前に、『サバイバル力が必要』という気持ちに襲われたことがあった。
それは啓示のような感覚だった。息子たちに伝授しなければいけない、と。
そのためには、まず自分がその知識と技術を身につけようと思った。
学んでいるうちに、すっかり自分が夢中になり、息子たちに教えることをすっかり忘れていたということに気づいたのは最近で、彼らはもう自立して遠くに住んでいる。
今となっては、彼らの自発的な行動に期待するしかない(謝)
さて、サバイバル力。
日本の未来のビジョンを見た時(※私は時々未来のヴィジョンを見る)、人口がものすごく減って、森の中にコミュニティを作って暮らす人々が点々と見えていた。森林は生き生きと復活し、澄んだ水は山から海へと注ぎ、人々は豊かな自然の恵みを受けながら共に助け合いながら共同生活をしていた。
これからどれくらい先にそんな世界が来るのか来ないのかははっきりわからない。
自分がその中の一人として存在しているのかもわからない。
でも、これから何が起ころうと、どんな世界になろうと、先祖たちがずっとそうであったように、私たちも自然の中でたくましく生きて行く知恵をもう一度取り戻しておく必要があるという気持ちをここ20年ずっと持っている。
何が食べられる植物で、どれが薬草なのか、いつでも火は起こせるか、住まいになる簡単な家は作れるのか。。。、
まあ、そこまでの状態になるかどうかは別としても、私自身はそういう知恵を持って生きていきたいと思っている。安心して生きるために、そして、いつでも誰かの役に立つことができるように。
でも、決して強迫観念を持っているわけではない。
むしろ、今流行のアウトドアブームを歓迎していて、私もそういう感覚で楽しんでいる。
アウトドアライフを通して、私たちは自然の中で生きる術を身につけて行くことができるのだから。
皆さんも、何かできることを楽しみながらやってみてくださいね。
参考になりそうなサイト貼っておきます。
立冬の空と森
暦の上では明日は立冬。
シトシトと時雨(しぐれ)が降る晩秋に、昨日は、嵐のような激しい暴風雨が窓を叩きつけていた。
11月に入っても、なかなか脱ぎ捨てられなかった熱を、あの嵐が吸い取って持ち去ってくれたかのように、今日は涼しい。やはり立冬だからだろうか。
昨日の夕方、嵐が過ぎ去って穏やかになった空を見上げた。
様々な灰色が重なっていた。
灰色(グレー)は、あまりいいイメージで使われることがない色味だけど、私は大好きな色。
光の濃淡だけで表す彩りのない色のことを、無彩色という。
無彩色とは、光だけの白と、全く光がない黒と、その間の光の濃淡だけで表す様々なグレーがある。私は、この光だけで表す無彩色になぜかとても惹かれる。光と陰を感じられるからなのかもしれない。
芦屋に在住した谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』がある。
昔、読んだ本だが、とても共感したことを覚えている。
まだ電灯がなかった時代、灯りによって家中の陰をなくそうと努力していた西洋とは逆に、日本では陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げ、それこそが日本古来の美意識の特徴だと、この本には書いてある。
和歌山にある海南リトリートは、伝統的な日本家屋で、その陰影の美しさがあちこちに散りばめてある。
例えば、この玄関。
細い格子を、等間隔でこれだけの本数つけていくことは、どれだけ大変な作業なのだろう。まさに匠の技。
そのおかげで、外の光が穏やかに室内に入ってきて、室内に美しい影が生まれる。
玄関前に植えられた皐月(さつき)の花が満開になる初夏、暗い玄関の内側からぼんやりと赤い色彩だけが映る。この間接的なものに美を感じ取れるのは日本人だからなのかもしれない。
陰影といえば、太陽が地平線に隠れて、薄暗くなりかけた森。
空にはまだ微かに光が残っているが、森には光が届かなくなってきた頃、影絵のように樹形だけが空に浮かび上がる。
この時間は、なぜか、地球上のあらゆるものに、この上ない親しみと感謝が湧いてくる。
この週末、福岡の実家の近くにあるキャンプ場で、カッコよくいえばソロキャンプをしてきた。
今でこそ、ソロキャンは大ブームとなっているが、私は子供の頃から、海岸や河原で石を積んで枯れ木を集めて、マッチで火を起こして、飯盒炊飯をしたり、持ってきた網を載せて、スーパーで買ってきたり家から持ってきた食材を焼いたりして楽しんでいた。
お洒落な道具など皆無だった(笑)炭も使わなかった。それでも火をちゃんと起こせた。
今は、キャンプ場の決まりで、直火ができないので、簡単な焚き火台と、防火シートと炭とトングを買ってきた。折り畳みの椅子とヤカンなども家から持って行った。
森を見渡し、針葉樹を探して、その木の下に落ちている枯れ葉や枯れ枝を拾ってきた。
針葉樹の薪や枯れ葉は火がつきやすいが、燃え尽きるのも早いので、点火材として私は利用する。
まずは、山と森と大地とそこ住むものたちと火の精霊に挨拶の祈りをする。それから火を起こし始める。不思議なことに、祈りを忘れると火はなかなか点かないのだ。
人混みから外れた森の入り口で、日がとっぷりと暮れるまで、ただひたすらに火を見つめて過ごした。
背後の森と、森が抱えるあらゆる命を感じながら、私もその命のひとつとして森に包み込まれ守られているような穏やかさを感じた。
土の匂い、草木の匂い、燃える木や炭の匂いを嗅ぎながら、パチパチという焚き火の音と、森から聞こえる鹿の声に耳を傾けた。
キャンプ場にいる子供たちの楽しげな声。
遠くの街から聞こえる飛行機や車や電車の音。
普段は静かな森に、押し寄せてくる人間たちを、動物や精霊たちはどう思っているのだろう。
『私たちは元々、森や山と暮らし、火に守られて生きてきた。だから、現在の人間も、時々森に行って火のエネルギーをもらいたくなるんだよ。今日は仲間に入れてね。』
最後の残火となった頃の炭はとても美しい赤色を発する。
暗闇の中にいても、全く怖くないのは火のおかげ。
私たち先祖は、火に感謝して火を守って生きてきたのだろう。
暗くなった森の中で圧倒的な虫の音色に包まれ始める。
ああ、この可愛らしく美しい虫の音色を音楽として捉えることができるのが日本人とポリネシア人だけなんて!
日本人でよかったと思える瞬間がここにもあった。
影を愛し、虫の音色を聞き分け、自然に感謝と親しみを抱く日本人。
色と音への感性に優れて、全てのものに神を感じて感謝して生きてきた日本人。
日本に生まれてきたことに誇りと感謝を感じながら、その感受性と精神を忘れずに次の世代に引き継いでいきたいと思った数日でした。
雛祭り
娘が一人暮らしを始めてからは、雛人形たちを箱から出す機会がすっかり減っていたのですが、今年はなぜか気になって、3年ぶりくらいに押入れの枕棚から重い箱を引きずり下ろしてきました。
和紙でグルグル巻きにしていた人形たちを解放するように、次々に出していくと、まるで人形たちが仲間たちとの再会を喜び合っているかのように見えてきました。
再会を喜び合って賑やかにお喋りをしているようで、微笑ましいです。
一体何を話しているんでしょうね。
こういう光景を見ると、数年間も箱に閉じ込めていたことが本当に申し訳なく思えてきました。これからは毎年出してあげなきゃ・・・。
みんな、整然と並んで、今年も結婚式が始まったようです。
もう何回めの結婚式なのでしょうね。
娘が誕生した時、初孫である彼女がいつか幸せな結婚をすることを願って、義母から贈られた雛人形です。
本来、雛人形は、立春を過ぎたらすぐに飾り、3月3日になったら速やかに片付けるものらしいです。遅くまで出していると婚期が遅れると言われています。
それを知りつつも無頓着な私は、せっかく出したのだからできるだけ長く飾ろう(しまうのが億劫なだけ説)と、旧暦で考えようと言い訳しながら、4月に入るまで出しっぱなしにしてきました。
そのせいかどうか、孫娘の結婚式を見ることなく残念ながら義母は一年前に亡くなってしまいました。この雛人形を久しぶりに飾りたくなったのも、義母が娘の幸福を心から願っていてくれたことを忘れないでいたいと思ったからです。
そして、そんな風に愛してくれた人がいたことを娘に覚えていて欲しいのです。
そんな娘が、今日、この動画を教えてくれました。
少なくとも、この素晴らしいスピーチに共感する心を持った大人に育ってくれたことを嬉しく思いました。
素晴らしいスピーチを皆さんと共有したいと思います。
「How you living?」
あなたは、どんな風に生きていますか?
この問いかけに、胸を張って何かを答えられる人でありたいと思いました。
誕生日を迎えて
新しいブログを始めようと思った日は、偶然にも私の誕生日でした。
誕生日も、いつも通り一人で家で過ごしました。
普段から一人で家で過ごすことが多いので、別段いつもと変わらない一日でした。
ちょっと違うことといえば、あちこちからプレゼントが届いたことです。
私が、無類の香り好きだと知っている娘やスタッフたちから、愛用のシャネルやディプテックの香水や、大好きなローズの天然オイルなどをプレゼントしてもらいました。
遠方にいる息子からは、まるで花束のような京野菜ブーケが届きました。
無農薬の京野菜で作られているので、全て食べられます。
食べてみると、驚くほど味が濃くて甘みさえ感じて、感動しました。
根蕈果 さんというお店のものだそうです。これで konshinka と呼ぶそうです。
お花だと枯れたら終わってしまうけど、これなら目で楽しんだ後は、美味しく食べられますね。しかも、体にも良い。野菜でブーケを作るなんて、なかなかいいアイデアだと思いました。
弟からも桐箱入りの高級くるみケーキが届きました。
写真を撮った時にはまだ届いてなかったのですが、実家の両親からも、地元のあまおう(私は苺が大好きなのです)が届きました。
そして、先月の海南リトリートでの合宿では、少し早めのサプライズバースデーパーティーを生徒さんたちがプレゼントしてくれました。
これは、全く予想してなかったので、本当にサプライズで、だからすごく嬉しかったです。
私の誕生日は、こうして毎年、みんなに祝ってもらったり、プレゼントを贈っていただいたり、お祝いの言葉やメッセージをたくさんいただいています。本当に私は幸せだと思います。
でも、ただ自慢がしたくて、この記事を書いているわけではありません。
誕生日を誰かに祝われることもなく、一人で過ごしている人がたくさんいることを知っています。
実は、私もそういうバースデーを送ったことがあります。
誕生日だけでなく、一人きりのクリスマスイブやお正月なんかも。
人生の折り返し地点をとっくに通過している私ですから、数十年の長い人生の中ではそういうことは何度もありました。
でも、どの誕生日を振り返っても、寂しいと思いながら過ごしたことは一度もないのです。
元々、孤独という概念が私にはあまりないからかもしれません。
私には、「私」という親友がいると思っています。
「私」ほど私のことを理解している友人はいないし、「私」を相手にしている時が一番楽しくさえあります。
そして、私は、「私」をとても大事にしています。もっといえば愛しています。
「私」と二人きり(一人かな)の時、私は完全にリラックしていて、落ち着いていて、楽しいのです。
「私」の方からすると、私が結構なズボラ人間で、時にわがままで、ものすごく気分屋で、たまに偏執的に何かに囚われる性格であることを充分理解しています。それでも、そんな私のことを面白がって付き合ってくれます。だから、寂しいと思ったことはないのです。
私は、貧しさも充分に経験しています。
財布の中を除いて、数百円しかないような状況は、もう何度も経験したことがあります。
でも、そんなに焦ったことはなかったように思います。
なんとかなるだろうと思える呑気なところがあります。
どうにもならない状況になったことも実際ありますが、それでも、今こうして普通に暮らしているわけだから、どうにかなってきたのです。
自分の長所を挙げるとすると、どんな時も生きていこうとする逞しさと、何かしらの希望や楽しみを見つけようとする前向きさだといえるかもしれません。
こんな私でも、どうにか3人の子供を育てた母親です。
成人して社会に出た子どもたちですが、社会の厳しさに打ちのめされて弱音を吐いたり、心が病みかけたことがありました。そんな彼らの苦しみは、私も若い時に経験してきましたから理解できます。
そう、この社会は厳しいのです。それも、とても!
なぜ、こんなに厳しく生きづらく大変なのか、その理由を挙げることは簡単です。
でも、変えることはとても難しいのです。
人間は、何のために生きているのだろうと、私もずっと考えていたことがあります。
長いことかかってようやく私が見出した答えは、とても簡単なものでした。
ただ「死が訪れる日まで生き抜くこと、生きることをあきらめないこと」
それだけだったのです。
こうして記事を書いている私も、いつか死にます。
この記事を読んでくれているあなたにもいつか死は訪れます。
どうせ、死ぬのです。
だから、死に急ぐ必要はなく、逆に長生きをしようともがく必要もなく、生まれてから死ぬまでの日々を、「どう」生きるか、その「どう」にだけ気をつけて毎日を生きていけばいいのだと思います。その「どう」は、「どんな心で今を過ごすのか」なのだと思います。
不安に駆られて生きるのも、怒りを抱いて生きるのも、その人の自由といえば自由なのですが、どうあがいても人間は、毎日毎日、そして一刻一刻、死に向かっているのです。
誕生日、それは生まれた日を祝う日ですが、毎年、この日を迎えるたびに、あの生命力と希望に満ち溢れて輝いていた誕生の瞬間からどんどん遠ざかっていくことを思い出させられる気がします。
そして50歳を過ぎれば、希望に満ちた未開拓の将来というよりも、いつか迎えるだろう死の瞬間、またはそこへ向かうこれからの日々を意識する方が強くなってきます。
だから、人生でもっとも貴重なのは「時間」だと気づき始めるのです。
ネガティブな感情に長く捕われている身近な人に、私はつい言ってしまいたくなるのです。「時間がもったいないよ」って。
どうしてこんなことをしてしまったのだろうとか、何であの時ああしなかったんだろうとか、どうして自分はいつもこうなんだろうとか、どうしようもない過去を悔いたり、今の自分の不甲斐なさを嘆いて、いつまでも苦しんでいるのは時間がもったいない気がしてしまうのです。
今、どれほど悩んで苦しんでいても、絶対にいつか立ち直るのです。そうでなければ生きていけないから。
どうせいつか吹っ切れたり、諦めることができたり、立ち上がることができるのであれば、それを今やっちゃえば?と言ってしまいたくなります。
ネガティブな感情は一旦置いておいて、今できることにだけに目を向けて、それをやっていくだけでいいんじゃないのかと。
つまり、感情からの一刻も早い脱出なのです。
ネガティブな感情から抜け出すのは、最初は難しく感じるかもしれません。
でも、常にネガティブさから早く抜け出そう、こんな感情は捨てようともがいていると、どんどん抜け出すのが早くなります。そのうち、あまりとらわれなくなってくるから不思議です。感情は訓練で凌駕することができるのです。
嘆くことをやめて、自分を裁くのもやめて、「私」という自分の最大の理解者である親友と共に、この厳しい社会の中で、わずかでも何らかの喜びを見出し、好きなものを見つけ、心軽やかに生きていく努力をし続けること。
そして、自分の周りにいてくれる家族や仲間に、まずは感謝の気持ちと言葉を表して、笑顔を贈りながら生きていくこと。
それがきっと、幸せという最高のプレゼントをあなたにもたらしてくれるのです。
理解されたいなら、相手を理解すること。
何かをもらいたいなら、先にそれを与えること。
愛されたいなら、まず愛すること。
孤独になりたくないなら、孤独を恐れないこと。
病気になりたくないなら、病気を怖がらないこと、
強くなりたいなら、自分の底力を信じること。
私もこのことを改めて心に刻みながら、このブログに来てくださった方々に感謝して、この素晴らしい誕生日の夜を過ごしたいと思います。
皆様に祝福あれ!
2023年2月9日Serena