誕生日を迎えて
新しいブログを始めようと思った日は、偶然にも私の誕生日でした。
誕生日も、いつも通り一人で家で過ごしました。
普段から一人で家で過ごすことが多いので、別段いつもと変わらない一日でした。
ちょっと違うことといえば、あちこちからプレゼントが届いたことです。
私が、無類の香り好きだと知っている娘やスタッフたちから、愛用のシャネルやディプテックの香水や、大好きなローズの天然オイルなどをプレゼントしてもらいました。
遠方にいる息子からは、まるで花束のような京野菜ブーケが届きました。
無農薬の京野菜で作られているので、全て食べられます。
食べてみると、驚くほど味が濃くて甘みさえ感じて、感動しました。
根蕈果 さんというお店のものだそうです。これで konshinka と呼ぶそうです。
お花だと枯れたら終わってしまうけど、これなら目で楽しんだ後は、美味しく食べられますね。しかも、体にも良い。野菜でブーケを作るなんて、なかなかいいアイデアだと思いました。
弟からも桐箱入りの高級くるみケーキが届きました。
写真を撮った時にはまだ届いてなかったのですが、実家の両親からも、地元のあまおう(私は苺が大好きなのです)が届きました。
そして、先月の海南リトリートでの合宿では、少し早めのサプライズバースデーパーティーを生徒さんたちがプレゼントしてくれました。
これは、全く予想してなかったので、本当にサプライズで、だからすごく嬉しかったです。
私の誕生日は、こうして毎年、みんなに祝ってもらったり、プレゼントを贈っていただいたり、お祝いの言葉やメッセージをたくさんいただいています。本当に私は幸せだと思います。
でも、ただ自慢がしたくて、この記事を書いているわけではありません。
誕生日を誰かに祝われることもなく、一人で過ごしている人がたくさんいることを知っています。
実は、私もそういうバースデーを送ったことがあります。
誕生日だけでなく、一人きりのクリスマスイブやお正月なんかも。
人生の折り返し地点をとっくに通過している私ですから、数十年の長い人生の中ではそういうことは何度もありました。
でも、どの誕生日を振り返っても、寂しいと思いながら過ごしたことは一度もないのです。
元々、孤独という概念が私にはあまりないからかもしれません。
私には、「私」という親友がいると思っています。
「私」ほど私のことを理解している友人はいないし、「私」を相手にしている時が一番楽しくさえあります。
そして、私は、「私」をとても大事にしています。もっといえば愛しています。
「私」と二人きり(一人かな)の時、私は完全にリラックしていて、落ち着いていて、楽しいのです。
「私」の方からすると、私が結構なズボラ人間で、時にわがままで、ものすごく気分屋で、たまに偏執的に何かに囚われる性格であることを充分理解しています。それでも、そんな私のことを面白がって付き合ってくれます。だから、寂しいと思ったことはないのです。
私は、貧しさも充分に経験しています。
財布の中を除いて、数百円しかないような状況は、もう何度も経験したことがあります。
でも、そんなに焦ったことはなかったように思います。
なんとかなるだろうと思える呑気なところがあります。
どうにもならない状況になったことも実際ありますが、それでも、今こうして普通に暮らしているわけだから、どうにかなってきたのです。
自分の長所を挙げるとすると、どんな時も生きていこうとする逞しさと、何かしらの希望や楽しみを見つけようとする前向きさだといえるかもしれません。
こんな私でも、どうにか3人の子供を育てた母親です。
成人して社会に出た子どもたちですが、社会の厳しさに打ちのめされて弱音を吐いたり、心が病みかけたことがありました。そんな彼らの苦しみは、私も若い時に経験してきましたから理解できます。
そう、この社会は厳しいのです。それも、とても!
なぜ、こんなに厳しく生きづらく大変なのか、その理由を挙げることは簡単です。
でも、変えることはとても難しいのです。
人間は、何のために生きているのだろうと、私もずっと考えていたことがあります。
長いことかかってようやく私が見出した答えは、とても簡単なものでした。
ただ「死が訪れる日まで生き抜くこと、生きることをあきらめないこと」
それだけだったのです。
こうして記事を書いている私も、いつか死にます。
この記事を読んでくれているあなたにもいつか死は訪れます。
どうせ、死ぬのです。
だから、死に急ぐ必要はなく、逆に長生きをしようともがく必要もなく、生まれてから死ぬまでの日々を、「どう」生きるか、その「どう」にだけ気をつけて毎日を生きていけばいいのだと思います。その「どう」は、「どんな心で今を過ごすのか」なのだと思います。
不安に駆られて生きるのも、怒りを抱いて生きるのも、その人の自由といえば自由なのですが、どうあがいても人間は、毎日毎日、そして一刻一刻、死に向かっているのです。
誕生日、それは生まれた日を祝う日ですが、毎年、この日を迎えるたびに、あの生命力と希望に満ち溢れて輝いていた誕生の瞬間からどんどん遠ざかっていくことを思い出させられる気がします。
そして50歳を過ぎれば、希望に満ちた未開拓の将来というよりも、いつか迎えるだろう死の瞬間、またはそこへ向かうこれからの日々を意識する方が強くなってきます。
だから、人生でもっとも貴重なのは「時間」だと気づき始めるのです。
ネガティブな感情に長く捕われている身近な人に、私はつい言ってしまいたくなるのです。「時間がもったいないよ」って。
どうしてこんなことをしてしまったのだろうとか、何であの時ああしなかったんだろうとか、どうして自分はいつもこうなんだろうとか、どうしようもない過去を悔いたり、今の自分の不甲斐なさを嘆いて、いつまでも苦しんでいるのは時間がもったいない気がしてしまうのです。
今、どれほど悩んで苦しんでいても、絶対にいつか立ち直るのです。そうでなければ生きていけないから。
どうせいつか吹っ切れたり、諦めることができたり、立ち上がることができるのであれば、それを今やっちゃえば?と言ってしまいたくなります。
ネガティブな感情は一旦置いておいて、今できることにだけに目を向けて、それをやっていくだけでいいんじゃないのかと。
つまり、感情からの一刻も早い脱出なのです。
ネガティブな感情から抜け出すのは、最初は難しく感じるかもしれません。
でも、常にネガティブさから早く抜け出そう、こんな感情は捨てようともがいていると、どんどん抜け出すのが早くなります。そのうち、あまりとらわれなくなってくるから不思議です。感情は訓練で凌駕することができるのです。
嘆くことをやめて、自分を裁くのもやめて、「私」という自分の最大の理解者である親友と共に、この厳しい社会の中で、わずかでも何らかの喜びを見出し、好きなものを見つけ、心軽やかに生きていく努力をし続けること。
そして、自分の周りにいてくれる家族や仲間に、まずは感謝の気持ちと言葉を表して、笑顔を贈りながら生きていくこと。
それがきっと、幸せという最高のプレゼントをあなたにもたらしてくれるのです。
理解されたいなら、相手を理解すること。
何かをもらいたいなら、先にそれを与えること。
愛されたいなら、まず愛すること。
孤独になりたくないなら、孤独を恐れないこと。
病気になりたくないなら、病気を怖がらないこと、
強くなりたいなら、自分の底力を信じること。
私もこのことを改めて心に刻みながら、このブログに来てくださった方々に感謝して、この素晴らしい誕生日の夜を過ごしたいと思います。
皆様に祝福あれ!
2023年2月9日Serena